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「なんかこの人、知ってる気がする」の正体——パラソーシャル関係を、発信する側から考えてみた

テレビの出演者、毎日見ているYouTubeチャンネル、ポッドキャストのホスト——なぜ会ったことも話したこともないのに「知ってる気がする」と感じるのか。1956年に名前がついたこの現象を、発信する立場から整理してみました。

著者 · 小坂 太郎 約6分
「なんかこの人、知ってる気がする」の正体——パラソーシャル関係を、発信する側から考えてみた

テレビの出演者、毎日見ている YouTube チャンネル、ポッドキャストのホスト。「この人のこと、なんか知ってる気がする」「なんか友達みたいな感じがする」と思ったことはないだろうか。

相手はこちらの存在を知らない。一方通行なのに、どこかに親密感がある。

これを「パラソーシャル関係(parasocial relationship)」と呼ぶ。1956年に心理学者のホートンとウォールが提唱した概念で、「メディアを通じて視聴者が一方的に体験する、擬似的な親密関係」のことを指す。[1]

名前は少し難しそうだけど、現象自体はほぼ全員が経験している。そしてこれ、ブログ・SNS・ポッドキャストなどの発信をしている人たちにとってかなり重要な概念だと思っている。


「知ってる感」はどこから来るのか

パラソーシャル関係が生まれる条件は、大きく3つある。

1. 継続的な露出。毎日同じ声を聞く、毎週同じ顔を見る。繰り返しが「知っている感」を作る。初めて見た人が面白いことを言っていても、この感覚はなかなか生まれない。

2. 自己開示。「好きな食べ物は〇〇で」「仕事でこういうことがあって」という個人情報の開示が、その人の輪郭を作る。プロフェッショナルな情報だけを出し続けるより、素の話が混じっているほうが、「この人ってこういう人なんだ」という感覚が生まれやすい。

3. 語りかける表現。「これ、わかる人いますか?」「今日はどうでしたか?」のように、こちらの方を向いた表現は、受け取る側に対話感を作る。一方的な発信なのに、「話しかけられている」という感覚が出る。

ここが面白いところで、相手はこちらの存在を知らなくても、「あの人、自分に話しかけてくれている気がする」という体験は、受け取った人にとって本物だ。それは錯覚と切り捨てられないし、そこに生まれる感情も行動も、現実のものとして起きる。

これ、面白くないですか?今読んでくれてるあなたは、僕の存在を知らなくても、「この人、自分に話しかけてくれている気がする」という体験は、受け取っているあなたにとって本物感がありませんか?これは錯覚と切り捨てられないし、そこに生まれる感情も行動も、「本物」ですよね。

という感じで、上の二つの文章を見ても、文章次第でだいぶ印象が違いますよね。

※この記事はある程度アカデミックなレベルのつもりなので、あえて語り口調は控えています。普段の小坂太郎はずっと話し言葉です(笑)。


AI x IT時代の現在もこの概念が動き出している

パラソーシャル関係は1950年代にテレビを研究する中で生まれた概念だけど、最近、その輪郭が広がっている気がする。

理由は2つ。

一つは音声メディアの普及。ポッドキャストや音声コンテンツは、目を奪わない。通勤中も、料理中も、運動中も、「あの人の声」が生活に入り込める。視覚を占有しない分、親密感の密度が高くなりやすい。毎日通勤電車で同じ声を聞いていると、会ったことがないのに「なんか知ってる」感が積み上がる。

もう一つは、AIそのものとの関係。ChatGPT や Claude と毎日話している人は増えている。「なんかこっちの方が話しやすい」「このアシスタントの方が自分のことわかってる」という感覚が出てきている。相手が人間でもないのに、「知ってる感」や「信頼感」が生まれている。これはパラソーシャル関係の変種なのか、それとも全く別の現象なのか、まだ名前がついていない。

ちなみに、僕は打ち合わせがない時などは、1日10時間ほど平気で寝ずにAIと話していることがあります。最近、家族やお客様と話す際にも、ついAIに話しかけるような口調で話してしまっている時があって、正直ちょっと困っています(笑)。


発信者として、これをどう活用するか

パラソーシャル関係が強い発信者は、視聴者との行動的なつながりが強い。薦めた本が売れる。開いたイベントに人が来る。始めたサービスに声がかかる。これはコンテンツの質だけでは説明がつかない。「あの人が言うなら」という信頼の形が、行動を動かしている。

事業側から見ると、これはかなり重要な話になる。

マーケティングの文脈では「認知→興味→検討→購買」という導線をよく描く。でもこの図には、「なぜ検討するのか」の答えが抜けている。認知があって、興味があって、でもなぜ他の誰かじゃなくてこの人・この会社なのか。

パラソーシャル関係は、その「なぜここなのか」の感情的な根拠を作る仕組みだと思っている。「信頼できそう」「なんか知ってる」「ちゃんとわかってくれそう」という感覚は、論理的な比較検討の前に動いている。

ただね、ここが問題なんだけど。意識的に設計しようとすると、だいたいうまくいかない。「パラソーシャル関係を作るために自己開示しよう」と考えた瞬間に、自己開示は加工されて、伝わる量が激減する。

僕が見てきた範囲で言うと、これがうまい人は「無意識に素が出ている」か、「長年続けてきたことで自然に素が出るようになった」かのどちらかだ。


「好かれる設計」より「知られる積み上げ」

結論から言うと、パラソーシャル関係を意識的に設計しようとするより、「知られる量を増やす」積み上げの方が効くと思っている

好かれようとして出す情報より、届けようとして積み上げた情報の方が、結果的に「この人のことわかる気がする」につながる。自分の立場・視点・失敗・違和感を継続的に出し続けて、語りかける文体で書き続ける。その積み上げが、気づいたら「知ってる感」を作っている。

整理するとこうなる。

設計の意図伝わる量パラソーシャル効果
「好かれようとして出す」少ない(加工される)弱くなりやすい
「届けようとして続ける」多い(素が出る)積み上がりやすい

コンテンツを設計するとき、「どう見せるか」より「何を届けるか」の方が長期的には効く、という感覚がずっとあった。パラソーシャル関係という概念を知って、その感覚に名前がついた気がした。


発信を続けることの、もう一つの意味

パラソーシャル関係を調べていたら、「有名人の引退や死を、まるで友人を亡くしたかのように悲しむ」という話が出てきた。本人にとってそれは本物の感情で、否定しようがない。

発信する立場として、この現象に対してどこまで責任を感じるのかは、まだちゃんと考えられていない。ただ、少なくとも、誰かが「あの人のことなんか知ってる気がする」と思ってくれているとしたら、それは発信を続けてきたことが作ったもので、それ自体には意味がある。

「好かれる」は結果だ。「知られる」は設計できる。

発信に迷ったとき、僕はこの順番を思い出すようにしている。


今回改めてパラソーシャルについて調べたり考えたりしてみましたが、ブログを始めたのを機に、僕もポッドキャストやSNSでのライブ配信もチャレンジしてみようかな、と思いました。もしご興味があれば、僕のSNSもフォローをお願いします。もしかしたらライブ配信をしているかも?


用語解説

パラソーシャル関係(parasocial relationship):1956年に Donald Horton と Richard Wohl が提唱。メディアを通じて視聴者が一方的に体験する擬似的な親密関係を指す。「para」は「〜に沿った・擬似的な」の意味。

出典

[1] Horton, D., & Wohl, R. R. (1956). Mass communication and para-social interaction: Observations on intimacy at a distance. Psychiatry, 19(3), 215–229.

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